大連市内観光 その2 大連港

大連港へ。 S0101297.JPG 大連港は太平洋戦争終結で中国大陸から日本に引揚者たちでごった返しになったところ。1946年12月~1947年3月、大連港より20万3765人の日本人の引き揚げが行われる。その後も引き揚げが行われた。 S0101299.JPG S0101300.JPG S0101301.JPG S0101302.JPG S0101303.JPG S0101304.JPG S0101305.JPG S0101306.JPG S0101307.JPG S0101308.JPG S0101309.JPG S0101310.JPG S0101311.JPG S0101312.JPG S0101313.JPG S0101314.JPG S0101319.JPG S0101323.JPG ホテルに帰る。〇ンリオのキ〇ィちゃんと〇ラえもんがコラボしてました。

大連市内観光 その1

バスで少し移動して大連市内に入りました。 日露戦争後から太平洋戦争までの日本の史跡を巡ります。人民広場に向かう。 S0101280.JPG 大連市人民政府(旧関東州庁舎) S0101281.JPG 東大安田講堂館に似てる大連市裁判所(旧最高裁判所S0101283.JPG S0101285.JPG S0101286.JPG S0101287.JPG 労働公園へ少し観光。日本統治時代は『西公園』、1926年から『中央公園』。 公園内で大きな筆で書を書くお爺さんを見つける。 S0101288.JPG S0101290.JPG S0101291.JPG 公園に集まってトランプゲームをする人たち。 S0101292.JPG S0101294.JPG その後で中国茶の試飲販売のお店へ。中国茶道のマナー講座とかジャスミン茶を試飲したりした。

水師営会見所

旅順203高地の観光の後で日露両軍の降伏会見場として使われた水師営に向かいました。 S0101241.JPG S0101242.JPG 203高地からはほど近い。現在周辺は住宅地になっている。乃木将軍、ステッセル将軍の会見所としてこの農家を接収して会見場とした。水師営は第一回総攻撃ですでに日本軍占領地になっていた。 S0101243.JPG S0101244.JPG S0101249.JPG 水師営の会見は1905年1月5日11時からの予定だった。旅順要塞司令官ステッセル将軍と参謀長レイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて、水師営会見所に午前10時半に到着。遅れて乃木将軍は11時15分に農家に入った。同行者は伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、通訳として川上俊彦外務書記官の6名。 会見では終始穏やかで両軍ともにお互いの軍隊を称えあい、双方の参謀を交えて昼食をとり、お互い無事に帰国できたなら文通を交わそうと約束。 午後1時15分には旅順に帰って行った。 S0101257.JPG ステッセル中将が乗ってきた白馬。 S0101258.JPG 会見の前に1月2日午後1時、降伏条件を伊地知参謀長と交渉するために水師営に到着した降伏軍使レイス大使とシチェンスノビッチ大佐。前日の1日にステッセル将軍の降伏書簡を手渡していた。 S0101261.JPG S0101264.JPG 会見所の座った場所も実はどこに座ったかはっきりしているらしいがメモを忘れた。 S0101266.JPG 会見所の農家は1995年に建て替えられたもの。 S0101267.JPG S0101268.JPG S0101269.JPG S0101270.JPG 会見中の外の様子。 S0101271.JPG S0101274.JPG S0101275.JPG 会見所は1945年まで観光地として整備されていたようです。歌にまで唄われる水師営会見。 S0101276.JPG Generaly-Stessel-i-Nogi-posli-sdachi-Port-Artura.jpg 会見の後で海外のカメラマンからステッセルの記念写真を撮ろうとしたが、乃木将軍はそれを拒んだ。「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。」と「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい。」とあくまで同一条件を意識し、双方互い違いに座って記念写真に収まる。 画面中段左からレイス参謀長、乃木将軍、ステッセル将軍、伊地知参謀長。 画面手前左から、レブレスコイ少尉、津野田少尉、 画面奥左から川上俊彦書記官、安原参謀、マルチェンコ中尉、松平副官(この人はマルチェンコ中尉に対してどうしてか肩に手を乗せている。)、渡辺管理部長。 S0101245.JPG 写真は角度が少し悪いが乃木、ステッセル両将軍の写る有名な写真の場所はここで撮られた。写真の種類では画面右に植木(唄にあるナツメの樹?)があるのですが、少しトリミングされている。花壇はもちろん戦後に作られたものだが、入り口側の堀を背に両将軍が記念写真のために立っていた場所である。とても感慨深い。 S0101277.JPG 観光の後ですぐ隣の奥のレストランで食事。地元の人も利用するような場所だった。そして会見所向かいにお土産屋がある。ここは南満州鉄道社のマークの入った食器も売っていた。結局買わなかった。 S0101278.JPG S0101279.JPG

日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その3

旅順攻囲戦のロシア軍降伏後の古写真がいくつか見つかったので載せます。 解説は写真を元に独断で考察したもので間違いもあります。 0_da14f_c601ea46_XL.png 旅順要塞降伏後、白玉山から旅順港をみる日本兵0_da14e_6c828ecc_XL.jpg 攻囲戦後、進駐する日本兵109893-d4f8fa0f3d9a9e9ee28ee1556aa351ca.jpg 1905年1月1日、日本軍の猛攻により守備兵力が枯渇しかけたロシア軍は望台の陥落でついに抗戦を断念。旅順要塞司令官ステッセリは降伏を申し入れる。5日、旅順近郊の水師営で乃木将軍と会談を行う。会談後、降伏式の前に完全武装で待つ。ロシア軍守備兵。 0_e6aaf_d820b6d3_XXXL.jpg 降伏の前に様子を見に来た日本兵と一緒にカメラに写る。タバコを交換しているように見える。日露戦争では戦闘を一時中断して双方の物々交換や同胞の戦死遺体を収容することがあった。 0_e6a7c_70a65bb8_XXXL.jpg 前線まで見に来た日本兵と一緒に。 109902-95e1e5ec05cc3f851455f355d199d4d3.jpg 0_da14a_6d24bce_XL.png 0_da14b_8cfe6dee_L.png 43974_900.jpg 44228_900.jpg 109852-a64204b279d43c3724eb3eb75ed037bc_jpg_pagespeed_ce_pkIEsnnUPD.jpg 109854-89fac13ecd08afcfd51dd673125d1512_jpg_pagespeed_ce_ifrBPs0Ir8.jpg 109881-a1425a407b45ca79b722c2d1be81d070_jpg_pagespeed_ce_oUJaQHtFyn.jpg この写真はまだ戦闘中の旅順港の状況。203高地は12月5日に占領するも、旅順港内の目標艦船の射撃観測点として機能したというのは間違いで、旅順艦隊はすでに黄海海戦で修復不可能なほど消耗しており、水兵や艦隊の砲は陸揚げされて守備兵力に編入されていたとのこと。動かぬ艦船に命中しても二十八センチ砲の威力を持っても船底を貫き、沈没させることはできず、戦後に自沈処理されている。203高地の他、東鶏冠山堡塁、二竜山堡塁、望台、と陥落が続いたことで降伏するに至ったのだ。203高地占領という感動的な描かれ方をしているが、実際のところ、旅順攻囲戦全体の最終段階において203高地が射撃観測に良さそうだと、攻撃を集中させたという話のようである。 109882-101e8dd28749e219b058ecbdf29d29f2_jpg_pagespeed_ce_EB6N0odJ4h.jpg 109850-0dcdca540b0b8af96c27db3d9ea5b3c1_jpg_pagespeed_ce_Dc3KVAsLiv.jpg 109886-a9e386877ab0feb5158b4f730d79e273_jpg_pagespeed_ce_qeOGh3qw_r.jpg 109883-507e40f8a594154681e966984d498e05_jpg_pagespeed_ce_UH5A-KWUFU.jpg 109899-9a38374327fb4d6d7c9a4c91d9451c4c_jpg_pagespeed_ce_mjg3Qyf7TW.jpg 109940-d8a8f4318b8433098939af9f4573752e.jpg 109941-64b6c668ec951369ad4639d932ff7d06.jpg 109942-d28a4cc2e12d44ffffe630d116d9f334.jpg 109943-0feb109b5451a77e2b3c18bac5c499cc.jpg 1293955675_01.jpg 1293955696_11.jpg 1293955702_06.jpg 1293955721_03.jpg 1293955766_13.jpg 1293955769_14.jpg

二百三高地を登れ!その2

爾霊山塔を見た後で駐車場へ。帰る少しの間だけ西側山頂へ向かいました。 S0101219.JPG S0101220.JPG ここを下ると保典戦死の石碑があるところじゃないかなと思います。 S0101221.JPG S0101222.JPG S0101224.JPG 旅順港を見る。 41694_900.jpg 115年前の旅順港二百三高地から。 S0101227.JPG 2015年の旅順港S0101228.JPG そしてこの場所にデンと建造されていたのが、かの有名な二十八センチ榴弾砲です。 S0101223.JPG まず二百三高地頂上に二十八センチ榴弾砲は設置されていません!北側麓から旅順港内に届く範囲に設置されていました。そしてこの適当さ加減。サイズももう少し大きいと思われます。 S0101225.JPG S0101226.JPG 0_da148_c6382141_XL.png 参考までに実物写真。 S0101229.JPG S0101230.JPG そこかしこに塹壕跡が見られます。 S0101231.JPG S0101232.JPG S0101233.JPG S0101235.JPG S0101236.JPG S0101237.JPG S0101238.JPG 二百三高地、歴史を感じる戦場も今や観光名所。兵どもが夢の跡。 S0101239.JPG 0_e6a93_97859a59_XXXL.jpg

二百三高地を登れ!その1

旅順包囲戦、最大の激戦地、203高地へはバスで中腹の駐車場まで登れます。 S0101202.JPG 203高地は別名「爾霊山」(にれいざん)。すぐとなりに老虎溝山(赤坂山)があるのですが、駐車場から反対側に登るらしい。そこにはいけなかった。爾霊山の塔があるのが203高地東側山頂で、203高地占領後、弾着観測所になったのが西側の山頂のようです。 S0101203.JPG 乃木将軍の次男、乃木保典戦死の石碑もあり、ひっそりとあるようです。時間があったらそこにも行きたかった。(陸軍少尉。日露戦争に後備歩兵第一旅団司令部付として出征、二○三高地で明治37年12月1日第三回総攻撃の中、敵砲弾により戦死した。24歳。) 1904年8月から総攻撃を繰り返すも、旅順要塞群は陥落せず、将兵の死傷者を多く出したことにより、民衆は乃木将軍を強く非難、自宅への投石行為をした。第3回総攻撃で保典戦死により、世論は一遍。それより先、1904年5月に長男の勝典が南山の戦いで戦死しているのを知り、功労者としての評価がなされる。息子二人を戦地で失い、旅順攻囲戦の第三軍の多数の死傷者の責任からか、将軍の軍人としての想いや如何許りのものだったか。 S0101204.JPG 駐車場からミニバン(有料)で案内してくれるそうですが、結局歩きました。歩けばすぐ近く。スロープもそこまで急ではない。この道もちゃんと整備はしてくれてはいるが、当時、ロシア軍が使っていた道だろう。 S0101205.JPG S0101207.JPG S0101208.JPG S0101209.JPG S0101210.JPG 爾霊山塔。戦後、乃木将軍発案の元、山頂に散らばる敵味方の殻薬きょうを集め、鋳造して、三十年式実包の形に成形して建立した。爾霊山とは乃木希典の考えた当て字で漢詩から「爾(なんじ)霊の山」、「爾(二)、霊(〇)、山(三)」と表記した。息子の死、数多の部下の死を乗り越え、慰霊の想いをしたためた。文字は乃木将軍の筆跡である。 203高地の戦いだけで日本軍側1万人、ロシア軍側6千人の死傷者を出した。 S0101211.JPG 5月末の頃だったが気温が高く、湿度もあったのであまり旅順港は見えなかった。 S0101212.JPG S0101215.JPG S0101216.JPG 太平洋戦争が終わって、ソ連軍侵攻で観光地だったここもソ連軍の管轄内に。ロシア革命以前の戦いに敵将の慰霊碑に落書きをする者あり。文化大革命でも荒廃した場所でもある。殻薬きょうなので真鍮製かな? S0101218.JPG

旅順駅、旅順ヤマトホテル

もう5年前になるね… S0101168.JPG 東鶏冠山北堡塁の後で旅順市街に入りました。旅順港は太平洋戦争後も軍港として発展、外国人の立ち入りは制限されていたという場所。現在では日本人観光客の増加により戦前の建築文化財の保存に乗り出し、まだ観光整備中といったところでした。 S0101167.JPG S0101170.JPG 旅順駅 S0101171.JPG 日露戦争始まる以前にロシア軍が軍港利用を目的として1903年に開業。1904年に日露戦争勃発で駅舎は日本のものに。1945年に日本の敗戦でソ連軍のものに、1952年、中国政府の管理下へ。 木造建築で当時の面影が残るロシア建築独特な屋根をしたレトロな駅舎。 S0101172.JPG S0101173.JPG S0101176.JPG S0101177.JPG S0101178.JPG バスの車窓から案内されただけでしたが旅順港から見える白玉山塔。 日露戦争後に戦没者の遺骨を収容する「納骨祠」を作り、東郷平八郎乃木希典の共同提案で2年と歳月と募金10数万を募って高さ84.8mの英霊を祀る「表忠塔」を建立した。時間がなかったので訪れることはなかった。景観がよいことからロープウェイもあるらしい。 S0101179.JPG S0101181.JPG ここから旅順ヤマトホテルの画像。帝政ロシアが建築中だった建物を改装してホテルに。南満州鉄道が豪華絢爛な装飾を施した一流の建物も、現在では廃墟同然。中国政府が文化財保護の為にこれから改修工事をする予定だそうだ。ホテルの前は露天市場が並ぶ。昔は栄えていたはずなのだが、歴史の流れというものを感じる。 S0101180.JPG S0101183.JPG S0101184.JPG S0101185.JPG S0101186.JPG S0101187.JPG S0101188.JPG S0101189.JPG S0101190.JPG S0101191.JPG S0101192.JPG S0101194.JPG S0101197.JPG 汚れた窓から中を覗いてみる。中に階段が見えるが、手すりが波形の凝った作り。戦前は李香蘭山口淑子)も泊まったかもしれないし、川島芳子は結婚式をここで挙げて、あの階段を昇ったであろう。そんな場所だ。 S0101198.JPG S0101199.JPG S0101196.JPG

非常事態宣言

2020年新春の頃から新型肺炎のニュースが話題になり、ジワジワと都市部の感染者拡大、4月始めに非常事態宣言が発表され、職場でも自主休業が決まりました。

仕方がないので部屋に籠っていろいろやっているわけですが、たまにはブログに日記を書こうと思い立ったわけです。

今まで有休1週間とか、インフルエンザで1週間の休業はあれど、自主休業で1か月とは今までに経験のないこと。しかも外出を制限されるとは、まったくもって暇を持て余した状態になってしまってる。旅行に行こうかと思ったけど外出はよくない。ではどうすればよいのかと考えたら部屋でできることしかできないわけです。

初めてヤフオクで出品をしてみたり、ホームベーカリーを買ってパンを焼いてみたりしました。できることを少しずつ進めていくしかない。

『ターミネーター:ニュー・フェイト』(19年・米)

「私の為に死なないで」

ターミネーターシリーズ1~2の正統な続編。

ターミネーター』(84年)、古典的名作。サスペンス・スリラーが強いがアクションもなかなか。

ターミネーター2』(91年)、アクションの大傑作。CGの使い方、演出も素晴らしい。

ターミネーター3』(03年)、前作からのリブート。テンポも演出もダメ。え?それで終わり?

ターミネーター4』(09年)、結局核戦争は防げなかった未来。これもありだなと思える好編。

ターミネーター:新機動/ジェ二シス』(15年)、あれ?2の続編?どんなラストか覚えてない。

そして本作ニュー・フェイト(原題の副題はdark fate、なぜ変えた?)。

個人的に映像関係の道に行くきっかけとなった思い入れのある映画が『2』でした。何度も何度も見た映画はこの『2』でした。野球延長でVHSに録画撮れてなかった『2/特別版』がめちゃくちゃ悔しがりました。

子供の頃、強いヒーロー像としての憧れの存在だったのが、シュワルツェ・ネッガー演じる怪力あるT-800型でした。スカイネットに支配された未来から抵抗運動リーダーの保護を「再」プログラムされた無敵のロボットが武骨で筋肉モリモリのマッチョなシュワちゃんにベストマッチしていました。おまけに革ジャンにショットガン打つんだからワイルドな印象が引き立ったわけです。銃弾なんか跳ね返してしまう重装甲、筋肉のたくましさ、子供ながらにパワフルな理想のヒーローだったわけです。

また、それよりも際立つ存在感があったのが、我が子の身を案じてムキムキに鍛え上げていたリンダ・ハミルトン演じるサラ・コナーでした。筋肉質な女性が演じる強い母親像という姿がグッと魅力的に見えた存在でした。そのサラ・コナーの扱いは『2』以降出てきませんでした。強い女のキャラクターはほかの映画には要れど、どこか映画的に誇張されてリンダ・ハミルトン演じるサラ・コナーの役ほど強くは見えませんでした。

『2』から28年後にそのリンダ・ハミルトン演じるサラ・コナーが見れる!と言ったらぜひとも観に行こうと思ったわけです。

内容は詳しく言えませんが、『2』から話は流れて2020年が舞台になっており、新たな未来からターミネーターが現れ、それを阻止する抵抗運動の代表者も現れ、『2』から続くサラ・コナーが前に現れるといった内容です。話的に未来は救われたの?とか、そういう話はありません。あれはどうなった?とかそういう突っ込みもあります。ただいうなればサラ・コナー、年をとってもリンダ・ハミルトンかっこいい。シュワちゃんはなぜサングラス掛けなかった?新型ターミネーター強すぎ。グレースも強くてかっこいい。女性陣の進出際立つターミネーターの新作でした。

手に汗握るアクション豊富でとても疲れた。でもこんなに興奮したのも久しぶり。ちょっと突っ込みどころもあるけれど『2』の続編にふさわしい。良作でした。

旅順口区国防教育基地 二十八センチ砲弾

兵舎跡に隣接する資料館で旅順攻囲戦の資料をまとめた資料館があります。 いわゆる日本の大陸侵略の先駆けとも取れる旅順攻囲戦の紹介なので日本批判ももちろんあります。 S0101124.JPG S0101125.JPG S0101126.JPG S0101127.JPG S0101128.JPG S0101136.JPG S0101137.JPG S0101138.JPG ここから出土した不発弾の展示。この時代もまだ信管の開発が未発達で不発弾も多かった様子。 S0101139.JPG S0101140.JPG これが旅順攻囲戦で名をはせた二十八センチ砲から発射された砲弾の不発弾。重量220kg。専用のクレーンで装填した。 日本は対船舶用を想定していたので柔らかい土に着弾すると信管が反応しない場合もあったとか。旅順のロシア軍は不発弾を掘り起こして同サイズのクルップ社製榴弾砲で打ち返してきた。 S0101141.JPG ogawa_russo-jp_collo_p10_82-1.jpg S0101142.JPG S0101143.JPG うわさの信管。 S0101153.JPG 日本軍を悩ませていたロシア軍のマキシム機関銃(英製)。日本軍はこの未知の兵器に対して大損害を受けるが、それは塹壕を掘ることで対抗した。10年後のヨーロッパ、第一次世界大戦でも同じようなことが起きる。突撃による奇襲攻撃はなくなり、夜襲や砲撃支援の後に総攻撃の作戦が練られた。 S0101154.JPG S0101155.JPG S0101156.JPG S0101159.JPG