映像を残すとは…

話が戻るが先週、万博の中にある民族博物館に行ったんだけど、中では100年後に映像を残す催し物をしていた。

簡単なメッセージを撮影したデジタル映像を100年後まで保存し、一般に公開できるようになっている。注意書きには『映像の保存には万全の対策を持ちますが、万が一ネットに自分の映像が流出し、初めて行った海外で知らない誰かから指をさされて笑われるかもしれない。肖像を害されるかもしれない、そういうことを御理解ください。』とあった。

まったくその通りで、最近のインターネットの映像公開の広がりはえらいところまできている。そんな世の中にこういうことをしてみようという気になる人はいるのだろうかと正直疑問だった。しかし、2000年にも同じようなことをやっていて、パソコンで見られるようになっていた。それには7年前の人のメッセージが残っていた。何もしゃべらずすぐに映像が終わってしまう人、親子で来たことを告げる人、戦前生まれで70を過ぎた人がどこで生まれたのかを言っていて、その人はもう生きていないかもしれない。たかが7年前の映像だが、粒子の荒いデジタル映像の中でその人たちは自分がこの場所に来たこと、何か記録を残そうと必死になっている姿があった。

正直100年後に映像が残っているのか不安だ。天変地異でデータが壊れるかもしれない。係員の不注意で上書きしてしまうかもしれない。ネットに流出して中傷されるかもしれない。そんな危うさの中で、何か期待を持ったように映像を残した人たち。過去から時間を飛び越えてメッセージを残すというのはこうも貴重なものかと思った。

映像を残すとはいったいどういうことなんだろうか。自分で撮影したものは100年後には跡形もないかもしれない。それはつまり100年後には自分の存在すら忘れられてしまっているだろう。なぜ記録するのか。それは自分という存在を余生に知らしめることなのか。存在を知ってもらい、今の自分の存在価値を高めるからだろうか。では映像とは過去を撮るものなんだろうか。今だかつて未来を撮影した映像は存在していない。撮影した時から過去となっているからだ。では過去から未来に自分の主張を告げるためにあるのだろうか。う~ん話が哲学的になってきたぞ。今の僕には昔の写真を見てほくそ笑んでいる自分がいるから、とりあえず撮影し続けるぞ。未来にそれが残っていることを信じて。自分がいたことを誰かに知ってもらうために。

う~んロマンだ。