地図になかった島へ。その3 広島まで?

瀬戸内の島を行く、ソロツーその3。

大三島、宗方に着いたら、ぱぱ~とすぐに出発。さすが四国に比べると人通り、車の数も少なめ。うちの実家周辺もそう変わりないですが、いいですな。すいてる道は。

大三島での目的地は北にある盛港でした。そこから、大久野島、広島本土の忠海へフェリーがあります。しかし、フェリーの時間は余裕がありました。それで一風呂、お風呂屋さんに。こうやって外出先で、気軽にお風呂に入れるのっていい。日本人に生まれてよかったと思うよ。ツーリング先で体力回復もできるから素晴らしい施設だ。

しまなみ海峡の中では一番大きい大三島ですが、あっという間に盛港に到着。

だだっ広い港はどことなく、空虚な雰囲気が漂います。

 

浅橋です。うん?なにか旗がありますね?

特産品無人販売所です。赤い缶にお金を入れて商品を買うようでしたが、なんとものんびりとしたお店。商品もぜんぜん並んでいなかった。そういや写真に写っている発砲スチロールの箱には一体何が…。

 

上はフェリー前方、下は後方に乗り込んだSLです。オフ車って荷物詰め込むと、どうしても不格好になってしまうな~。車体はシュッとしてるのに、上が大きいのでバランス悪く見えてしまう。まあしょうがない。テントにシュラフに銀マットを積むと大荷物です。

すこしモヤが出てましたが綺麗な夕日。

十数分で大久野島に到着しました。フェリーの係り員は「今から大久野島に行く人は珍しい。」と言う。「島でキャンプしようと思うんですよ。」といったら、どこか渋ったような顔をしていた。「?」と思ったら、これが災難の始まりだった。盛港でフェリーの乗船券売り場で大久野島でキャンプしようと思っていると告げたら、「島は車が通れないようにしてるから駐車場に止めたらいい。」と売り場のお姉さんは言っていました。ところがどっこい、行ってみて初めてわかることが多数あった。

大久野島に着いたら、その港の関係者らしいおじさんが「今日は泊まるんですか?」と聞いてきた。キャンプをしようと思っていると言ったら、この島ではキャンプできないという。「ホテルの人に聞いて、泊められないかお願いしてみて。」という。あまりにも突然言われたことにポカンとしてしまう。今乗ってきたフェリーが今日の最後のフェリーだ。ホテルの前に着いたらホテルマンらしい人が現れて、同じような質問が。それに加え、この島全体がホテルの所有地となってて、勝手にキャンプしたり、車で走ったらいけないというのだ。そんなことHPでも書いてなかったのに。しかも唯一あるホテルはGWで満室。キャンプ場はあるのだが工事中で閉鎖、おまけに最後のフェリーが出てってしまったので、バイクを置いて、最後の船である客船で忠海(本州本土の広島県)に行って宿舎を探せと言うのだ。

そういう情報はあらかじめわかっていたら、こういうことにはならんかったのに!

最後のフェリーが出た後で、身一つで大荷物の自分に宿舎を探せとは。みじめさに恥ずかしく、バイクの荷物をとき始め、さあフェリーターミナルへ行こうかとしたらバイクはホテル裏へ回せと追いかけてきた。はいはいそうですか、と従うしかない。ホテルの裏に置いたら同じくホテルマンらしい人から朗報が。「忠海に行く客船になんとか乗せられそうなので、客船のターミナルへ行ってください。」と言う。

ああ、よかった。バイクを降りたライダーは心細い。おまけにテントが入った大荷物を背負ってどこへ行けと言うの。なんとか客船にバイクを載せてもらった。客船の乗船客の視線が恥ずかしい。

瀬戸内の島を行く旅が、広島本土についてしまった。さあ辺りは暗くなる一方だし、早くキャンプできそうなところを探そう。地図を見て人通りの少なそうなところを探す。そして無理やりキャンプ。もう真っ暗。

ここ私有地じゃないだろうな?真っ暗闇から突然ライトに照らされて、出てけ!なんて言われたらどうしよう、なんて考えてたらなかなか寝付けなかった。今回の旅はこれが一番きつかった。そうだよな、確かに私有地に勝手にキャンプされたら怒るわ。でも島全体がそうなっているとは。今度からキャンプ場があるならそこへ行こう。その点、四国はお遍路さんがいるから寛大なところはいろいろあると思うのだが。なんとか寝所を見つけられた安堵から、いつのまにか寝ていた。

テントを設営した某所。次の日起きたらもう腑に落ちない気分はなかった。これから同じ場所に戻らなければならない。また来たの?なんて言われたら恥ずかしいだろうな。

 

 きれいな忠海港。また大久野島にいかなければいけない。本来の目的地はそこだったのだから。

 

また大久野島に着いたらすぐにバイクを留めて、レンタサイクルを借りて観光開始。上2枚はホテルすぐ近くの毒ガスが入っていたタンクを隠すシェルターのような施設。中に筒状のタンクを固定するために台座がある。壁は落書きだらけ。落書きだって『1976』ってあるところから歴史すら感じる。

 

ここも貯蔵庫だったという場所。片側3つの蔵のような空間があるが、黒いススのようなものがある。戦後、進駐軍が焼却の為、火炎放射器で焼いた後がそのまま残っているのだという。環境庁の名前に立ち入り禁止の文字の看板。

確かに危なそうだ。

毒ガス兵器は進駐軍によって焼却処理のほか、薬品による消毒、地中に埋没。海底に沈めたりされた。戦後その処理に借り出された民間人数名が被害にあい、今も障害に悩まされているという。実質、毒ガスは消えていないので、今もこの島や海にに大量の毒ガス兵器があると思うとゾッとする。今も戦争の跡は消えていないのだ。

島の周辺にはテニスコート、プールもあるが、なんともこの対比はなんだろう。平和利用は確かにいいだろうが、細菌兵器が作られていた場所のすぐ近くで、遊びに興じるのも時間の流れが感じる。

 

自転車で走っているとこんなものがありました。お地蔵さんがおいてあるようなコンクリの穴がありました。その穴から上に、パイプでも通っていたような穴が開いています。なにか毒ガス兵器に関連する施設だったのでしょうか?

これから下は砲台跡の写真です。砲台は1900年初頭から作られたものなので、この風景は100年前から大砲がないこと以外、変わっていないのです。1920年代から毒ガスの貯蔵場所として使われていたので半世紀近く、この島は軍事拠点だったのです。それにしてもこんな場所が瀬戸内にあったとは…。

砲弾庫の役割として敵からの攻撃により、弾薬に誘爆することを防ぐためにか、少し地表から掘ったところに砲弾庫があります。下が降りて中を撮影した写真。

説明の看板には「日露戦争時に外された大砲は旅順攻略のときに使われた」とありました。旅順攻略のときに使われた大砲と言うと『28センチ砲か?(当時の言い方として28サンチともいう)』と思ってしまうのは『二百三高地』(80年・東映)の影響があります。(ここらへんがマニアックだ。)

前線に使うにしては扱いづらい、要塞に備え付けて使う巨大な大砲でしたが、日露戦争では二百三高地を攻略する為に早急に配備されたもので、設営にはコンクリートの土台に地中に円形状に数メートルの穴を掘らないと使えない代物でした。日露戦争ではこの大砲の投入が勝敗を決めたといってもいいくらい有名です。

 

「なんでその大砲がここにあったのといえるの?」というのはこの島に砲台が作られた時期もありますが、円形状に穴があったような跡があるのも、説得力あるような気がします。

http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_034.htm

 

ちょっと埋もれてはいますが、ここも昔は弾薬庫か兵隊の詰め所だったところだと思うと、歴史を感じる。二つ並んでる方は、隣の入り口に通じる横穴が開いていました。