豊原は消えてしまった。その2

ここサハリンでは戦勝記念日というのが9月3日にあり(9月2日は日本がポツダム宣言の調印をした日で翌日が対日戦勝記念日。5月9日には対独戦勝記念日。)、日本との戦争(1945年8月9日ソ連軍参戦から28日全島占領まで。)の戦闘の犠牲者を追悼する式典がユジノ・サハリンスク市内や、記念碑がある場所(北緯50度以南にたくさんある。)で行われる。 日本の場合「終戦」記念日は静々とした追悼の式典が行われるが、統治していたアジア諸国やここでは「追悼」よりも戦いの終わりを「祝う」式典が開かれる。ユジノ・サハリンスク市内観光は9月2日で、祭りの前の静けさか、こんな日に日本人の団体がいるのが珍しいのか、なにやら道行く人によく見られたような気がする。式典があった翌3日には50度線より北にあるノグリギという所に行っていたので、戦勝記念日のユジノ・サハリンスク市内の様子は見れなかった。ガイドのAさんによると式典では大通りに戦車や装甲車が走るらしい。さすがロシアだ。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (33).jpg ユジノ・サハリンスクの郷土博物館。現在でも見られる旧樺太庁の建物をそのまま使用している。瓦屋根が(サハリンでは)エキゾチックな雰囲気。修復はもちろんされているだろうけど、少し南国な雰囲気がするのはなぜだろう。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (35).jpg 博物館敷地内に置いてあった日露戦争時代の日本の大砲。ちょうど遊びに来ていた子供が遊具代りに登って遊んでいた。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (34).jpg 実は子供が持ってる所は動く。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (41).jpg みんなで被写体の餌食になった。お母さんははにかんですぐに退散していった。ロシアの女性は(特に多くもないが)赤毛に染めたり、黒髪の人は金髪に染めたりしている。地毛が伸びてプリン状態の女性もいた。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (40).jpg カメラに入りきらなかったが長砲身の大砲と砲弾。砲弾は隣のかな?砲身に「明治三十七八年戦役記念」と書かれているが、日露戦争の別称をそう言うのだそうだ。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (36).jpg ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (39).jpg ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (38).jpg 大砲の尾栓側。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (37).jpg 博物館の中は撮影禁止だったのでここまで。中にはサハリンにいた大昔の哺乳動物の化石、先住民族(ニブヒやアイヌ)の資料、間宮林蔵のことや、日本領地時代の資料(先住民族の資料に比べ少ない。)が展示されてあったが、時間が押していたので全てを見ることなく退館。お昼を食べにレストランへ。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (43).jpg ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (45).jpg 見学に来ていたのか明日の戦勝記念日のためか小学生が来ていた。 ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (46).jpg サハリンでは見るからに軍人さん(上下迷彩服姿)があちこちに歩いている。ロシアでは徴兵制があって18歳から3年間ある。(大学生は年数を減らされるが卒業したばかりのガイドのAさんは今月末に一年間入隊するという話も聞いた。)こちら一行は見るからに少年(士官学校の生徒か?)だが肩にはカラシニコフ銃を携えていて、身近に軍隊がいる国でもある。作業着代わりに全身迷彩姿のおじさんもいるし、露天商店で物売りをしている人も迷彩服姿の人がいる。日本では絶対に観ない風景だ。ちなみにロシアの軍隊ではなぜかボーダー柄のT-シャツを着ている人が多い。